天草湯島より8km離れた島原をのぞむ
はるか300年の昔、それは天草・島原の乱が終わってほどなくして、
今は人々の記憶から遠く忘れつつある天草と島原との縁(えにし)を再燃させる出来事があった。
村の百姓たちのために命を捨てる覚悟を決め、
ひとり立ち上がった島原のお百姓・横田伝兵衛(でんべえ)の義の行動である。
あの時代、その顛末は奇跡であった。
そこに私たちは、日本人の心の原点を知る思いがして、
無量の感動を覚えるのである。
あれから三百年、またここに島原と天草との縁がよみがえる・・・。
天草の小さな島、湯島
有明海の出口近くに位置する、周囲4㎞の湯島は個性的な島。
全国3番目に早い潮流とプランクトンの発生・育成に絶好の海域なため、驚くほど海産物が季節毎に大量にとれる漁場になっています。今日まで漁師は一切、養殖はやらず、天然物の一本釣りもしくは潜り漁法なのが、きわめて恵まれた世界だということがわかります。
農産物は幻といわれる「湯島大根」があります。赤土と、潮風が降り注ぐ、ミネラル豊かな土壌のためか普通の大根の1.5から2倍の大きさになります。しかもうま味があり、しまりがよく煮崩れしないなどの特徴が有り、今では根強い人気を博しています。
この小さな島は、歴史的に広く知られている、天草・島原の乱で一揆の人たちがこの島に集まり作戦を練ったり、武器の製造をしたので、「談合島」と称されるようになりました。
全島民あげての島おこし。88歳の古老だけが知っていた、島の伝説。
横田伝兵衛顕彰会の活動の様子等
環境に恵まれた湯島も若年層の流出で、島民である漁師も農夫も高齢化がすすみ、一時は1800人いた人口は350人弱となり、高齢化率は60%近い現状です。現在、地元の小・中学校の生徒は全部で8名です。一方で、村おこし、島おこしの風はこの湯島にも巻き起こり、U・Iターンの移住者が少しずつ現れてきました。そしていよいよ、全島民あげて島おこしに取り組もうかという矢先の事でした。
昨年の10月、畑地の開墾に取りかかった頃、移住し島お越しを志す人たちが、まずはこの島についての勉強をしようと、地元の元教師で歴史に詳しい古老の元を訪ねました。
「実は自分も3-4年前に初めて知った歴史がある」とポツリともらしてくれたのが義人、横田伝兵衛の湯島への島流しの一件でした。驚いたのは私たちだけではなく、湯島のほとんどの人たちにとって、初めて耳にする島の伝説でした。
義人・横田伝兵衛さんの勇気と心意気
長崎県 / 島原城
現在の雲仙市吾妻町にある大木場の組頭であった横田伝兵衛に、大きな転機が訪れたのは、江戸時代、検地が改められて課税額が決定した時でした。隣の地区と地質が違うのに自分の地区の農民にとって非常に不利な税が課せられようとしたのです。「これでは農民が苦しむ。」と考え、恐る恐る庄屋の中村依左衛門に申し出ました。しかし、庄屋の依左衛門は申し出の正しさを認めつつも、庄屋職の返上を恐れ、伝兵衛からの申し出を拒絶せざるをえませんでした。
伝兵衛は数日悩んだ末、島原城に一人で訴えに出ました。伝兵衛は課税の不公平を述べて、「土の良否は口に入れてみれば味で分かります。」と申し立てました。城主・松平忠房は、その申し立てに興味を持ち、農土を取り寄せ、二つのさらに入れて「どれが大木場の土かわかるか」と尋ねました。上等の土は甘みがあり、悪い土は荒く苦いと言い当てる才能のあった伝兵衛は見事に大木場の土を言い当てました。忠房はいたく感心し、大木場と田平の税率は伝兵衛の言う通り改正されることになり、農民はみな伝兵衛に感謝したといいます。
伝兵衛の直訴の顛末として
当時、直訴した者は死罪というのが幕府の法でした。しかし、藩主忠房は農民のために命を賭した伝兵衛の勇気と正当性を認め、死一等を免じました。その上、当時島原藩であった湯島への流刑を家族の同行も認める、温情ある判決を下したのでした。
伝兵衛はこの湯島で田畑を開墾するとともに、島人の生活指導にあたり、正徳五年(1715年)10月10日、この地於いて湯島の土と化しました。島人は伝兵衛を島神と崇敬してこれを祭祀したのです。
この伝説が初耳だったわけは、湯島が当時島原藩であった関係で、資料が熊本県にはなかったためです。しかし、伝兵衛さんの出身地、長崎県雲仙市吾妻町にはしっかりとこの伝説が収められており、伝兵衛さんの八代目にあたる人物、およびその親族たちとも面会し、この伝説の確かさが次第に明瞭になっていきました。
今、祀られているのは明治の初めに6代目にあたる方が、湯島から分骨したといわれる墓が雲仙市吾妻町にあるのみです。親族一同三十数名で湯島に元の墓を探しに行ったけれども発見できなかったという事です
運命的な発見から、横田伝兵衛顕彰会へ
左 / 伝兵衛さんの伝説を伝える宮崎先生 右 / じんべ木場(こば)
運命的な発見から、横田伝兵衛顕彰会へ湯島で唯一、横田伝兵衛さんの伝説を知る88歳の古老から初めて聞いた島の人々は、その伝兵衛さんの偉業を称え、顕彰することで、湯島と島原の人たちの誇りと啓蒙に役立てようと思い立ちました。横田伝兵顕彰会の目的はこうです。
「本会は、義人* 横田伝兵衛の、身命を投げ打って同郷の百姓たちの苦難を救い、加えて流刑地湯島において島人たちの「島神」とあがめられた人間性と生涯を讃えるとともに、その日本人の鑑ともいえる精神と生き方を長く子孫に伝承することを目的として活動しています。」(横田伝兵衛顕彰会リーフレットより)*利害を顧みず、正義を重んじる人
早速、事実調査を始めて、伝兵衛さんが住んでいたといわれる、「じんべ木場(こば)」を宮崎先生のご指導の元、見つけることができました。この日がなんと、2014年10月10日。伝兵衛さんが亡くなった命日、それも没後300年の一年前だということが判明したのです。これは伝兵衛さんが導いてくださったとしか思えない偶然に、一同驚きました。その後、何度となく、今はジャングルとなった付近の捜索をしていますが、それらしい石積みを発見したものの、お墓を見つけることはできませんでした。
今後の取り組みの計画は
伝兵衛さんの故郷島原半島をしっかりと望むことができる湯島の海岸に敷地を確保して、顕彰碑の建立を計画しております。そこは、島原の乱において、一揆軍が籠城し無念の最後を遂げた原城跡を真正面に眺める位置にあります。伝兵衛さんの命日10月10日に近い、10月4日には伝兵衛さん三百年忌法要をこの地で行います。
伝兵衛さんの子孫・八代目にあたる横田克久氏はじめ、大木場横田地区の親族および地区民の方たち約55名も参列される予定になっております。今回の支援していただいた金額をこの場所の整備費用として一部活用させていただきます。
この場所は顕彰碑を建立するだけではなく、「湯島・原城スポット公園」として、湯島住民の憩いの場所、来訪者にも美しい夕日を鑑賞できる観光スポットとしてさらに整備を進めます。
毎年、伝兵衛さんの命日には島原の人たちも迎えての「顕彰祭」を実施していくとともに、島原の乱終息の日、2月28日には乱で亡くなった37000人(攻撃側も含めれば数万人に及ぶ)人たちの冥福を祈願する行事も末永く実施していきます。
皆様のご支援、どうぞ宜しくお願いいたします。
- 【プロジェクトの目的】
- 村の百姓のために声明を捨てる覚悟で、一人立ち上がった義人・横田伝兵衛の義の行動、精神を広く日本中に顕彰するため
- 【資金50万円の用途】
- (1)顕彰碑費用、周辺の整備費・・・・32万円
(2)お返しの費用・・・・・・・・10.5万円
(3)ゆずり葉手数料(15%)・・・・7.5万円
*募集目標金額を超過してご支援いただいた金額も全て、横田伝兵衛顕彰会の活動費として大切に使わせていただきます。
*また、墓碑周辺の道路等の整備費、リーフレット作成費、300年法要の諸経費、墓碑案内板等に関しては、くまもと里モンプロジェクト/熊本県の助成金を受けて実施を行う予定です。
- 【湯島の横田伝兵衛さんのお話】
ゆずり人へのお礼(支援者へのリターン)
- (1) 3,000円の方:
-
御礼状+湯島産黒にんにく 1パック
- (2) 5,000円の方:
-
御礼状+湯島大根 5本程度
- (3) 5,000円の方:
-
御礼状+湯島サツマイモ(紅はるか)3kg程度
- (4) 5,000円の方:
-
御礼状+湯島産 自然栽培黒にんにく(100g) 3箱
- (5) 5,000円の方:
-
御礼状+湯島産 干しわかめ 3袋
- (6) 10,000円の方:
-
御礼状+湯島旅館宿泊3000円割引券
割引券使用可能旅館 …
1)旅館きく
2)日の出荘(TEL:0964-56-4075)
3)有明荘(TEL:0964-56-4101)
4)月見荘(TEL:0964-56-4001) - (7) 10,000円の方:
-
御礼状+特産品Aセット(湯島大根+黒にんにく(3箱))
- (8) 15,000円の方:
-
御礼状+湯島旅館宿泊5000円割引券
割引券使用可能旅館 …
1)旅館きく
2)日の出荘(TEL:0964-56-4075)
3)有明荘(TEL:0964-56-4101)
4)月見荘(TEL:0964-56-4001) - (9) 15,000円の方:
-
御礼状+特産品Bセット(紅はるか(3kg程度)+湯島大根+黒にんにく(3箱))
- (10) 20,000円の方:
-
御礼状+特産品Cセット(紅はるか(3kg程度)+湯島大根+黒にんにく(3袋)+干しわかめ(3袋))
- (11) 30,000円の方:
-
御礼状+伝兵衛さんツアー参加券(宿泊券+湯島の伝兵衛さん足跡の地を巡る)
日程:12月7・12・19日開催予定